泣かないで、君は僕の

瑞稀、って、呼び捨てで呼んでみても、もう胸の奥から音が鳴らない。
いちいち躊躇うような時間が、熱くなる耳朶が、裏返ってしまう声が、そういうときめきの欠片が、見つからない。


推薦で受けた大学は合格の通知をくれた。
進学先が決まって安心したのはその日だけで、憧れていたはずの日々がくすむ。

広いキャンパスのなか、隣を歩いてくれること、本当なんだろうか。


もうずっと前から、瑞稀には瑞稀の世界があって、わたしにはわたしの世界がある。彼氏だからってその世界を狭めるようなことはしたくはないし、そんなことをして嫌いになられるのが怖い。
大学は未知で、きっとサークルの女の子と一緒にいる方が楽なんだろうとか、すぐに良くない方向に思考が落ち着く。
高校生と大学生。たった1年の歳の差が今は心の底から憎い。
合格したらデートしようねって、それは珍しく瑞稀からだった。
楽しみだと答えたわたしは、上手く笑えていただろうか。


それくらい、今の自分に自身がなかった。


【 17:31 着いたよ 】


放課後、真っ直ぐに帰って家に着いたのが17時。瑞稀が迎えにくるのは17時30分から、時間はなかった。
制服から着替えて、メイクして、少しでも見合うように髪の毛を巻く。
そんな、いつもなら頑張れたことが今日は出来なくて、髪の毛は適当に結んで家を出た。


「ごめん、待たせたよね」
「いーよ、別に」

 

車の助手席で、引き伸ばしたシートべルトはすんなりと奪われた。
かちりと、金属の軽快な音がした。
「もう店決まってるんだ」
そう言って車を発進させる横顔を、ばれないように見つめていた。
この席に、わたし以外の誰かが座ることもあるのかと、思いながら。


「今日、珍しいね」
信号が赤になったら、横から腕が伸びてきて、その先の細くて綺麗な指が、わたしの髪の毛を弄んだ。
「、適当なの」
「可愛いよ」
自分が手を抜いただけなのに、そこに視線が注がれるとバツが悪くて俯いてしまう。

褒めなくていいよ、今日はいつもより可愛くないから。
「、別に、無理して褒めなくていいよ」
心の中で思っていたことは、気づいたら口に出ていて、車の中が一気に静かになった。小さく響くエンジンの音に紛れながら、瑞稀も少しだけ苛立っていた。
「何が不満なわけ、可愛いから可愛いって言っただけ。確かに今のお前は可愛くないわ」

吐き捨てられた台詞が頭の中をぐるぐると回る。
滅多に喧嘩なんてしないのに、こんな風にわたしだけの所為で、怒らせてしまったから、もう終わりかもしれない。
もう、終わり。
そう思ったら、一瞬で頬が濡れた。戸惑いながら、ばれないように拭って、どうにか止めようとしたけど出来なくて、小さな嗚咽が漏れた。
瑞稀の隣にいられなくなること、考えたくなかった。
「、泣くなよ」
髪を崩さないように気兼ねしながら、瑞稀の手の平が頭を撫でた。
拍車をかけられて、子供みたいな泣き声をあげた。
「何が不安なんだよ、馬鹿」
通りすがりの路肩に車を停めたらしい瑞稀は、手のかかる子どもの相手をするみたいに眉を下げて目を合わせた。
口が悪くても、向き合って話そうとしてくれる、瑞稀の好きなところ。
「、そうだよ、馬鹿だもん」
「勝手に遠くに行かないで、お願い」
泣きながら、今まで散々と心の中に隠そうとしてた秘密を晒す。
寂しいの、知らない間にとんどん大人になって先を歩いて行って、この車も、きっと他の誰かをなんて、考えたくない。


「はやく、頑張って追いつくから嫌いにならないで、」

 

もう、隠していることなんてない程に、何もかもを打ち明けた。
こんなに、自分が幼くて、面倒くさい性格なんだって知った。
「、ごめん、キスしていい?」
なんて言われるのか身構えていたら、突拍子もない言葉が返ってきて、それは疑間形のくせに、わたしが答えるよりも先に触れていた。
目を閉じるタイミングを失って、焦点の定まらない視界で側にある顔を見ていた。瑞稀の瞼が微かに開いて、確かに目が合った。
酷く胸が鳴った。苦しくて、何かに掴まれたみたいにぎゅっと痛んで。
「頑張らなくていい、今のままでいい。今のままがいい。今より可愛くなったら、俺が不安
なんだよ。これでも、頑張って年上らしくいるつもりなんだけど」
長く伸びる前髪の下で、へらりと力なく笑って、自信なんかないと呟く姿が、見たことのない位に弱気だった。
言葉にすることに時間のかかる2人だから、言わずに伝わることを信じすぎている2人だから、不意に、心がいっぱいになって溢れ出す。
似た者同士だって、笑ってよ。
泣いた後、ぐちゃぐちゃになった顔を不格好に歪ませて、わたしはまた上手に笑えない。

だけどね、瑞稀のくれた言葉のひとつひとつが嬉しくて、とびきり大切に感じるから、自然に、頬が緩むの。
寒がりで、いつも伸ばしている袖口が頬に触れて、濡れた場所をなぞった。
「どうしよっか、このまま、もう少しだけここにいようか」
名残惜しそうに重なった唇が、さっきより熱く感じて、わたしはただ頷いていた。もう少しじゃなくていいのにって、我儘を感じながら。