海に眠る⑶

一九八五年、冬。
私たち二人は誰にも許されなかった、と言って泣いたひとりの女の子は、西の海に沈んでいった。冷たい世界を嫌った彼女は、冷たく白い波間に消えた。最愛の人をひとり残して。
それは、最愛の人を世間の許さぬ道へと歩ませてしまった償いのようだった。
それは、最愛の人へ愛を永遠に誓うようだった。
それは、最愛の人を腕から解放するかのようだった。

彼女の遺体は上がらなかった。
私はひとり、彼女と生きた日々ばかりを思い出す。
「あたたかそうなこの海の底で暮らしたいね」「死装束はウェディングドレスがいいな」といたずらに笑う彼女の声が鮮明に耳に蘇る。バカじゃないの。いつもみたいに冗談だと言ってよ。
残された私はただ、涙を忘れて海を見つめるしかできなくなった。喪服のように黒い服しか着られなくなった。彼女が最期に選んだウェディングドレスのように白いワンピースを手に取ることはとてもできそうになかった。

あの日、彼女はお揃いの白いコートの中に白いワンピースを着ていた。夏の終わりに買って秋には大活躍した彼女のお気に入りの一着。コートの下で、真冬に着るには少し薄手なそれに袖を通していたことに気づくべきだった。気づいてあげられなかった。
私が死ぬのが怖くなっていたのと同じように、彼女は生きることが怖くなっていたのを、私は知っていたのに。
彼女が冗談の中に本音を隠すようになったことも、私は知っていたのに。

私たち二人が愛し合うことを許さないこの世界で、後ろ指を刺されるようにして生きることのつらさに彼女は打ちのめされていった。ときには自分自身と同じ女性を愛するという感情すらも、そしてそんな自分のことすらも恐れて。
私はどうすることもできないで、ただ寂しそうに笑う彼女の手をつないでいるしかできないでいた。私は彼女とこの世界で生きていくための剣にも盾にもなれずにいた。あの日の彼女がしてくれたように、日に日に冷えていく彼女の心を溶かすことが、ついに出来なかった。

いつしか私は彼女が言う冗談が本当のことになるのをずっと恐れていた。
冗談にしてごめんね。一緒に死ななくてごめんね。

息をすることが罪のようだった。彼女のいない世界で生き続けることは罰のようだった。


 どうして私をひとりにしたの……
 ひとりでいかせてごめんね……

 私は二人で生きることを望んだ。
 彼女は二人で死ぬことを望んだ。
 二人の望みが叶うことはもうない。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 二人が出会った記念日が、愛する人の命日に変わった。それから残された彼女は涙すらも失って、ただ彼女が沈んだ海を見つめて続けて七年という月日が経った。

僕は何も言えなかった。何を言っても、この岸壁でひとりきりで迷子のように立ち尽くす彼女をただ傷つけて終わるだろう。ましてや癒やすことなどできないだろう。彼女の過ごした七年間を思うと、言葉なんて浮かばなかった。

「この海は、あの子に似てる……」
彼女はそう呟いてしゃがみこむ。
名も知らない野花が揺れる。
そのとき、夏の生温い風が吹いて、まるで頬を優しく撫でるようだった。
愛した彼女の名前をぽつりと呼んだ彼女の頬が、静かに濡れた。
彼女の涙はきっとこの海の味と似ているだろうなと僕は思った。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 


 ——遅くなって、ごめんね


 それから彼女が冷たい海に身を投げたのは、僕に秘密を教えてくれてから半年も経っていない冬のことだった。二人が出会い、最愛の人が海に眠った同じ日付に、最愛の人と同じく白いワンピースで、最愛の人のもとへと向かった。

彼女の遺体が見つかったのは、それから三日後のことだった。彼女の手にはドライフラワーの花束がきつく握られていたという。
彼女の骨は無縁墓地に埋葬された。

僕は、残念だ、と思った。遺体が見つかってしまった。せっかく、二人だけの世界で眠れたはずなのに。
彼女は七年もの間、海に眠る彼女を想いながら、まるで罪を犯すかのようにひっそりと息をし続けていた。まるで罰を受けるかのように彼女のいない世界で生きていた。最愛の人をひとりで逝かせた罰を、自分自身に科していた。
あの日、彼女がやっと泣けたとき、彼女は自分自身を許すことができたのではないだろうか。

 

僕は無縁墓地から彼女の骨を盗んだ。
きっと理由はこれだと思った。彼女が僕に大切な秘密を教えてくれた理由はきっとこれだ。

凍える岬から骨を撒く。
白波に舞い散る雪と骨が溶け合うようだった。
彼女は海に沈んだ。

やっと彼女は眠ることができる。
彼女が握りしめたドライフラワーが語っていたもの。永久の追憶、終わりのない愛情。それを二人はきっとこの海の底で手に入れた。

僕は見たことのない幸せそうに笑う彼女を想像する。そして見たこともない彼女の愛した彼女のことを。頭のなかで、二人は幸せそうに手をつなでいた。あたたかい風が、二人を祝福する。

 

 二人はきっとあたたかな海底で、あたたかな夢に包まれて眠るだろう。