泣かないで、君は僕の

瑞稀、って、呼び捨てで呼んでみても、もう胸の奥から音が鳴らない。
いちいち躊躇うような時間が、熱くなる耳朶が、裏返ってしまう声が、そういうときめきの欠片が、見つからない。


推薦で受けた大学は合格の通知をくれた。
進学先が決まって安心したのはその日だけで、憧れていたはずの日々がくすむ。

広いキャンパスのなか、隣を歩いてくれること、本当なんだろうか。


もうずっと前から、瑞稀には瑞稀の世界があって、わたしにはわたしの世界がある。彼氏だからってその世界を狭めるようなことはしたくはないし、そんなことをして嫌いになられるのが怖い。
大学は未知で、きっとサークルの女の子と一緒にいる方が楽なんだろうとか、すぐに良くない方向に思考が落ち着く。
高校生と大学生。たった1年の歳の差が今は心の底から憎い。
合格したらデートしようねって、それは珍しく瑞稀からだった。
楽しみだと答えたわたしは、上手く笑えていただろうか。


それくらい、今の自分に自身がなかった。


【 17:31 着いたよ 】


放課後、真っ直ぐに帰って家に着いたのが17時。瑞稀が迎えにくるのは17時30分から、時間はなかった。
制服から着替えて、メイクして、少しでも見合うように髪の毛を巻く。
そんな、いつもなら頑張れたことが今日は出来なくて、髪の毛は適当に結んで家を出た。


「ごめん、待たせたよね」
「いーよ、別に」

 

車の助手席で、引き伸ばしたシートべルトはすんなりと奪われた。
かちりと、金属の軽快な音がした。
「もう店決まってるんだ」
そう言って車を発進させる横顔を、ばれないように見つめていた。
この席に、わたし以外の誰かが座ることもあるのかと、思いながら。


「今日、珍しいね」
信号が赤になったら、横から腕が伸びてきて、その先の細くて綺麗な指が、わたしの髪の毛を弄んだ。
「、適当なの」
「可愛いよ」
自分が手を抜いただけなのに、そこに視線が注がれるとバツが悪くて俯いてしまう。

褒めなくていいよ、今日はいつもより可愛くないから。
「、別に、無理して褒めなくていいよ」
心の中で思っていたことは、気づいたら口に出ていて、車の中が一気に静かになった。小さく響くエンジンの音に紛れながら、瑞稀も少しだけ苛立っていた。
「何が不満なわけ、可愛いから可愛いって言っただけ。確かに今のお前は可愛くないわ」

吐き捨てられた台詞が頭の中をぐるぐると回る。
滅多に喧嘩なんてしないのに、こんな風にわたしだけの所為で、怒らせてしまったから、もう終わりかもしれない。
もう、終わり。
そう思ったら、一瞬で頬が濡れた。戸惑いながら、ばれないように拭って、どうにか止めようとしたけど出来なくて、小さな嗚咽が漏れた。
瑞稀の隣にいられなくなること、考えたくなかった。
「、泣くなよ」
髪を崩さないように気兼ねしながら、瑞稀の手の平が頭を撫でた。
拍車をかけられて、子供みたいな泣き声をあげた。
「何が不安なんだよ、馬鹿」
通りすがりの路肩に車を停めたらしい瑞稀は、手のかかる子どもの相手をするみたいに眉を下げて目を合わせた。
口が悪くても、向き合って話そうとしてくれる、瑞稀の好きなところ。
「、そうだよ、馬鹿だもん」
「勝手に遠くに行かないで、お願い」
泣きながら、今まで散々と心の中に隠そうとしてた秘密を晒す。
寂しいの、知らない間にとんどん大人になって先を歩いて行って、この車も、きっと他の誰かをなんて、考えたくない。


「はやく、頑張って追いつくから嫌いにならないで、」

 

もう、隠していることなんてない程に、何もかもを打ち明けた。
こんなに、自分が幼くて、面倒くさい性格なんだって知った。
「、ごめん、キスしていい?」
なんて言われるのか身構えていたら、突拍子もない言葉が返ってきて、それは疑間形のくせに、わたしが答えるよりも先に触れていた。
目を閉じるタイミングを失って、焦点の定まらない視界で側にある顔を見ていた。瑞稀の瞼が微かに開いて、確かに目が合った。
酷く胸が鳴った。苦しくて、何かに掴まれたみたいにぎゅっと痛んで。
「頑張らなくていい、今のままでいい。今のままがいい。今より可愛くなったら、俺が不安
なんだよ。これでも、頑張って年上らしくいるつもりなんだけど」
長く伸びる前髪の下で、へらりと力なく笑って、自信なんかないと呟く姿が、見たことのない位に弱気だった。
言葉にすることに時間のかかる2人だから、言わずに伝わることを信じすぎている2人だから、不意に、心がいっぱいになって溢れ出す。
似た者同士だって、笑ってよ。
泣いた後、ぐちゃぐちゃになった顔を不格好に歪ませて、わたしはまた上手に笑えない。

だけどね、瑞稀のくれた言葉のひとつひとつが嬉しくて、とびきり大切に感じるから、自然に、頬が緩むの。
寒がりで、いつも伸ばしている袖口が頬に触れて、濡れた場所をなぞった。
「どうしよっか、このまま、もう少しだけここにいようか」
名残惜しそうに重なった唇が、さっきより熱く感じて、わたしはただ頷いていた。もう少しじゃなくていいのにって、我儘を感じながら。

ありがとうもごめんねも違う話

これまで担降りというものをしたことが無い人種なので、いざ自分がその選択をするような気持ちになることも想像なんてしていなくて、好きだけで応援できたあの頃に戻れたらどんなに幸せなんだろうと思う。

 

 

アイドルなんてジャニーズなんて、縁もゆかりも無い世界で、友だちに勧められたから半分くらい仕方なく観てみた2017年の3月。とにかく目を惹かれた男の子がいて、それが井上瑞稀くんだった。華奢で中性的で愛らしいのに、パフォーマンスは大胆でそれでいて華やかで。ころころ変わる表情だとか、カメラに向かって作り込まれた仕草だとか、こんなにも「アイドル」だと思う人に初めて出会った。それまでずっとバンドを追いかけてライブハウスばかりを通っていた自分がアイドルを応援することになるなんて周りも自分も驚いていた。

 

 

 

楽しかったなあ。あっという間だった。3年間って周りに比べたら短いと思う。だって瑞稀くんは9歳からジャニーズで、たくさんファンがいて、そのなかにはもっとずっと長く応援してきた人がいっぱいいるから。だけど生きていた19年で、その6分の1を捧げたってすごいことだと、そう思う。ざっと1000日、夢中でいさせてくれてどうもありがとう。

 

泣きそう。

 

 

担降りするとかしないとか、全部自分が決めることなのに、アイドルの応援は独り善がりなのにどうしてこんなに罪悪感みたいなものが胸にあるんだろう。デビューさせてあげられなくてごめんね?もっと沢山数字を出してあげられなくてごめんね?そんなの全部エゴだよ。わたしにそんな力はない。

 

 

瑞稀くんのことは好き。大好き。大好きなのに、なんでこんなに悲しいんだろう。こんなこと書いて公開してごめんなさい。それでもどうしても、誰かに知って欲しかったし、誰かにわかるよって言われたかった。ごめんなさい。好きなのに。

 

 

 

何をみても嘘みたいで涙がでる。瑞稀くんの言葉を信じられなくなったから、多分わたしは終わりなのだと思う。信じられないのは、わたしが悪い。

 

 

1/1、情報局に上がったHiHiJets5人の文章を読んだ。瑞稀くんは2019年は素直に生きていられた年だった、そんなことを書いていた。

 

腑に落ちなかった。

 

 

わたしが好きになった瑞稀くんはたしかに口数は少ないけれど、自分の考えがあって、それを表に出していて、上昇志向が強くて、周りの人たちを、大袈裟じゃなくメンバーすらもライバルで誰にも負けない、みたいな、危ういくらいの強さがあった。

 

パフォーマンスの幅、歌唱、演技。沢山の仕事と出会いのなかで成長したこといっぱいあると思う。大人になるにつれて丸くなったねって、そういう事じゃない。

 

 

 

こうしてわたしが書いていること、全部エゴだって、気づけ。自分の理想を投影して少しでもはみ出したらそれが悪と思い込むようなオタクになっちゃいけない。それはタレントの邪魔になると思うから。だからそうなったら、他に自分の理想を持ち合わせた誰かを探せばいい。この時代、言い方は間違えているけれどアイドルなんて腐るほどいる。どこかには絶対、求めている理想は見つけられるから。

 

 

 

わたしの理想に合わせて生きる必要は無いしわたしの理想が届くことなんて先ずない。だからこんな心配は気持ち悪いただの虚構で、意味は無いことだ。だけどこんな気持ちで見られていたら瑞稀くんは汚れてしまう。彼は綺麗な人だから。

 

 

 

2019年のサマーステーションのソロ曲、1582だったね。観に行って、泣いて帰った。本当に死んでしまうと思ったから。わたしがいま、観ているステージの上で瑞稀くんは冷たくなってしまうと思ったから。怖くなったから。それほどに瑞稀くんの表現力というものには恐ろしい力があって、観ている人を揺さぶる。武器を磨き続けることにも才能が必要なんだよ。これから先の世界で、瑞稀くんのその姿がきっと大きな花を開かせることだと確信しています。

 

 

自分でも何を書き残し何を伝えたいのか、もうわからなくなってきた。気持ちに言葉が追いつかないけれど、この気持ちを残すために言葉を探して立ち止まれば腐ってしまう。感情は生ゴミだから。だから今書き残さないとだめだった。

 

 

 

好きだよ。大好き。でもおしまい。

 

 

 

瑞稀くんがどんなに素敵な人かなんて知ってるつもり。瑞稀くんの良さを本人よりも探せるつもり。だけどもうわたしにはもうどうしようもできないよ。好きなのにな。ずっと、好きなのに、なんで好きなままいられないんだろう。

 

 

大好きなままでずっと心のなかにいてくれることに最大級のありがとうを伝えたいです。

 

たくさんの出会いと思い出と、感情をくれたね。瑞稀くんは唯一です。だから上書きもさせないし、できないよ。わたしの永遠で特別。ありがとう。わたしと出会ってくれありがとう。

 

2020-02-02

海に眠る⑶

一九八五年、冬。
私たち二人は誰にも許されなかった、と言って泣いたひとりの女の子は、西の海に沈んでいった。冷たい世界を嫌った彼女は、冷たく白い波間に消えた。最愛の人をひとり残して。
それは、最愛の人を世間の許さぬ道へと歩ませてしまった償いのようだった。
それは、最愛の人へ愛を永遠に誓うようだった。
それは、最愛の人を腕から解放するかのようだった。

彼女の遺体は上がらなかった。
私はひとり、彼女と生きた日々ばかりを思い出す。
「あたたかそうなこの海の底で暮らしたいね」「死装束はウェディングドレスがいいな」といたずらに笑う彼女の声が鮮明に耳に蘇る。バカじゃないの。いつもみたいに冗談だと言ってよ。
残された私はただ、涙を忘れて海を見つめるしかできなくなった。喪服のように黒い服しか着られなくなった。彼女が最期に選んだウェディングドレスのように白いワンピースを手に取ることはとてもできそうになかった。

あの日、彼女はお揃いの白いコートの中に白いワンピースを着ていた。夏の終わりに買って秋には大活躍した彼女のお気に入りの一着。コートの下で、真冬に着るには少し薄手なそれに袖を通していたことに気づくべきだった。気づいてあげられなかった。
私が死ぬのが怖くなっていたのと同じように、彼女は生きることが怖くなっていたのを、私は知っていたのに。
彼女が冗談の中に本音を隠すようになったことも、私は知っていたのに。

私たち二人が愛し合うことを許さないこの世界で、後ろ指を刺されるようにして生きることのつらさに彼女は打ちのめされていった。ときには自分自身と同じ女性を愛するという感情すらも、そしてそんな自分のことすらも恐れて。
私はどうすることもできないで、ただ寂しそうに笑う彼女の手をつないでいるしかできないでいた。私は彼女とこの世界で生きていくための剣にも盾にもなれずにいた。あの日の彼女がしてくれたように、日に日に冷えていく彼女の心を溶かすことが、ついに出来なかった。

いつしか私は彼女が言う冗談が本当のことになるのをずっと恐れていた。
冗談にしてごめんね。一緒に死ななくてごめんね。

息をすることが罪のようだった。彼女のいない世界で生き続けることは罰のようだった。


 どうして私をひとりにしたの……
 ひとりでいかせてごめんね……

 私は二人で生きることを望んだ。
 彼女は二人で死ぬことを望んだ。
 二人の望みが叶うことはもうない。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 二人が出会った記念日が、愛する人の命日に変わった。それから残された彼女は涙すらも失って、ただ彼女が沈んだ海を見つめて続けて七年という月日が経った。

僕は何も言えなかった。何を言っても、この岸壁でひとりきりで迷子のように立ち尽くす彼女をただ傷つけて終わるだろう。ましてや癒やすことなどできないだろう。彼女の過ごした七年間を思うと、言葉なんて浮かばなかった。

「この海は、あの子に似てる……」
彼女はそう呟いてしゃがみこむ。
名も知らない野花が揺れる。
そのとき、夏の生温い風が吹いて、まるで頬を優しく撫でるようだった。
愛した彼女の名前をぽつりと呼んだ彼女の頬が、静かに濡れた。
彼女の涙はきっとこの海の味と似ているだろうなと僕は思った。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 


 ——遅くなって、ごめんね


 それから彼女が冷たい海に身を投げたのは、僕に秘密を教えてくれてから半年も経っていない冬のことだった。二人が出会い、最愛の人が海に眠った同じ日付に、最愛の人と同じく白いワンピースで、最愛の人のもとへと向かった。

彼女の遺体が見つかったのは、それから三日後のことだった。彼女の手にはドライフラワーの花束がきつく握られていたという。
彼女の骨は無縁墓地に埋葬された。

僕は、残念だ、と思った。遺体が見つかってしまった。せっかく、二人だけの世界で眠れたはずなのに。
彼女は七年もの間、海に眠る彼女を想いながら、まるで罪を犯すかのようにひっそりと息をし続けていた。まるで罰を受けるかのように彼女のいない世界で生きていた。最愛の人をひとりで逝かせた罰を、自分自身に科していた。
あの日、彼女がやっと泣けたとき、彼女は自分自身を許すことができたのではないだろうか。

 

僕は無縁墓地から彼女の骨を盗んだ。
きっと理由はこれだと思った。彼女が僕に大切な秘密を教えてくれた理由はきっとこれだ。

凍える岬から骨を撒く。
白波に舞い散る雪と骨が溶け合うようだった。
彼女は海に沈んだ。

やっと彼女は眠ることができる。
彼女が握りしめたドライフラワーが語っていたもの。永久の追憶、終わりのない愛情。それを二人はきっとこの海の底で手に入れた。

僕は見たことのない幸せそうに笑う彼女を想像する。そして見たこともない彼女の愛した彼女のことを。頭のなかで、二人は幸せそうに手をつなでいた。あたたかい風が、二人を祝福する。

 

 二人はきっとあたたかな海底で、あたたかな夢に包まれて眠るだろう。

海に眠る⑵

いつものように私と彼女は手をつないで小さな岬で海を見ていた。
私たちはこの海が大好きだ。なんだかあたたかい気がする。今は冬だけれど、海の底の方はきっとあたたかい気がする。
あたたかい海の底で暮らしたいね。あっちの岬の底には温泉も湧いているかもしれないね。泳げなくても海の底をきっと歩けるから問題ないね。海底でもアイスクリームは食べたいね。結婚式にはこの岬に上がってあたたかい風に祝福されようね。
私たちはいつもそんなことを話す。そんな冗談や夢のようなことばかり話すのは楽しくて、哀しい。絵空事ばかりだったけれど、私たちにはそれが必要だった。

彼女の白く細い手をつなぐ。今にも消えて失くなりそうで、私は縋るようにつないだ手に力を込める。
彼女はこんなに細かったっけ。もとから華奢な彼女であったが、気がつけば去年の冬に新調したお揃いの白いコートもゆるく体が泳いでいる。
海を眺める彼女の美しい横顔を見つめる。
いつも冗談を言って、いたずらな彼女。小さな鼻先が可愛い彼女。優しくあたたかい春の陽射しのように、美しいひと
私は彼女のことが大好きだ。たとえ世間が許さなくったって、どうかずっと一緒に生きていたい。死ぬまで一緒に生きていたい。私がそう言うと彼女はいつも寂しそうに笑うけれど。

「今日は私たちが出会った日よ、覚えてる?」
彼女は、そう言ってつないだ指先を口元に寄せた。
もちろん覚えてる。あの日の、三年前の今日、この岬で人生を閉じようとした私を引き止めてくれたのは彼女だ。彼女が真剣な顔で言うおかしな冗談は、次第に私の冷えた心を溶かしてくれた。
あれから私は死ぬのが怖くなった。今では彼女の隣にいられなくなるのが怖くなるほど、彼女を愛している。

彼女がなにか意を決したようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「ねぇ、このまま、ここから私たち一緒に」
ざぁぁっ、と勢いよく風が吹いて、私は飛ばされそうになる帽子を押さえる。

風の音が強くて彼女の言葉がうまく聞き取れない。
「え?なあに?」
風に混じり始めた雪が睫毛をかすめて舞う。
彼女はつないだ私の薬指に小さく口付けた。
私と目を合わせて、しっかりと言い聞かせるようにつぶやく。
「ねぇ、わたし、幸せだったよ」
なんで急にそんなこと言うの、そう言おうとして、口に雪が舞い込む。
どうしてそんな泣きそうな声で言うの。そんな寂しい目をするの。
途端に、嫌な予感に胸がざわめく。冗談はやめてよ。
とっさに彼女を引き留めるように手に力を込めるが、かじかんだ手ではうまく力が込められなかった。
彼女はまるで遊ぶようにするりと私の手を解くと、ふわりと岸壁に駆け出す。

やめて!

声にならない。彼女を掴もうとして手を伸ばす。
岸壁の下では、ざざざんっと波が砕ける音が一段と大きく響く。

すると彼女は踊るようにくるりと私の方を振り返って、海を背にして立ち止まった。
彼女はらこちらに両手を広げて、
「すきよ、あいしてる」
と、微笑んだ。
なんだ、と安堵して彼女を抱きしめようと歩み寄る。
きつくきつく抱きしめてから彼女に抗議しよう。彼女はいつも冗談ばっかりだ。悪い冗談はもうやめてよ。

彼女は春の陽射しのようにやわらかくいたずらに笑って、ふんわりと灰色の寒い空に溶けるようにして海に倒れ込んで、
ごめんね、
と、目の前から消えた。

彼女が私たちの大好きな海に落ちる音は、ここまで届かなかった。


うそだ、うそだ、うそだ、うそだ、どうして!
膝が崩れて、彼女が消えた岸壁に駆け寄ろうにもほとんど歩けない。どうしよう。助けないと。喉奥が締まって声にならない。どうしよう。いやよ。強い風が髪を乱す。お揃いの白いコートに土がつく。息がうまく出来ない。這いつくばって、ごうごうと鳴る海を覗き込む。涙は出ない。白い雪と白い波の中に白いコートを探す。見つからない。いやだ。息が出来ない。どうしよう。どうして、どうして、どうして。冗談だと言って。いや。どうして、ひとりで行ってしまうの。どうして、ひとりにするの。息が。

 

目が覚めたときには、病院のベッドに力なく横たわっていた。
ああ! 彼女は助かったの!
彼女の愛しい名前を何度も何度も呼んで泣き叫んだら、口に酸素マスクをつけられて上手く名前が呼べなくなった。
ふわふわと混乱する私の脳裏に彼女の、すきよ、あいしてる。

 

 

 

海に眠る⑴

西の海の、その底には、彼女が愛した彼女が眠っているのだという。


潮騒が彼女の声をかき消す。僕は彼女が泣いているのかと思ったが、ただ寂しそうに海を見つめているだけだった。シンプルな黒いワンピースが風に揺れている。
夏の灼けつくような陽射しの下で、偶然この小さな岬にただ居合わせただけの見知らぬ僕に、彼女はなぜかたくさんの秘密を教えてくれた。それは、彼女たちが愛し合って生きていたこと。この岬で手を繋いで海を眺めながら二人が生きた日々のこと。それが、許されなかった、ということ。

僕は悔しくてたまらなくなった。
「二人には二人の世界があって、二人にしか分からない世界があるでしょう。二人だから見える世界があるでしょう。その世界の住人じゃない僕たちに、どうしてそれを否定できますか?」
僕は彼女たちが二人の愛を秘密にしなければいけなかった理由を分かっていたはずなのに、それでもそんな理由を、二人が許されない理由を分かりたくなくて、彼女を責めるように問うてしまう。どうしようもないのに。責めたかったのは彼女ではなかったのに。すみません、と小さく呟く。本当に責めたいのはこの世の中なのに。

「人を愛することは尊いことだと、人は皆言うけれど、世間が認める愛には、条件があるんですって。可笑しなことね。きっと愛も恋も知らない人たちなのよ」
彼女はクスクスと笑っていたが、からだの底で泣いているのがわかる。

二人だけの世界で生きることなんてできないじゃない。世間の目はいつも厳しくてね。何にも縛られずに生きることは難しくてね。と彼女は静かに語った。
泣けばいいのにな、と僕は思った。きちんと泣かないと、哀しみは心の底にずっと沈殿したままになってしまうから。
それが涙が出ないのよねー、と彼女はまた笑った。
 そして、「ねぇ、最後の秘密を聞いて」と、一九八五年の冬のことを教えてくれた。

 

信じている

FireBeatを歌っているときのあの宙を睨むような目をわたしはこの先どんなことがあっても忘れないと思う。

 

 

 

階段から5人が降りてきたとき、世界の真ん中には確かにHiHiJetsが立っていた。少なくとも、私の世界は君たちだったのだ。どうしようもなく胸が踊った。 未来に期待するのは危険なのに、それでも期待せずにはいられなかった。それほどに輝いていた。

 

 

滞りなく進む8月8日、その公演は誰かにとっての希望で、そして絶望だった。

 

 

SixTONESSnowManが2020年に同時CDデビューすることが発表された。まだ公演が始まってから1時間も経っていなかった。ステージの上で15人が横並びになっている。画面の前の私はどうすることも出来ずにただ眺めていた。物語を側で見ていたはずなのに、突然外野に放り捨てられたような気分だった。

 

 

 

言葉にならない悔しさがあった。勿論、推しているグループがデビューできたことは嬉しかった。けれど、でも、私の宗教はHiHiJetsで、猪狩蒼弥だから。仕方がないと許されたい。選ばれなかった側の気持ちは分からなくていい。分からなくていいから、分からないままで、許してほしい。妬み嫉むこと、涙が出るほどに羨ましいと思うこと。誰にもぶつけられないのに有り余るほどの大きさで、身体のなかで暴れる気持ちはどうすればいい。

 

 

みんなが幸せになれないことは言われなくても知っている、けれど自分が出会えたアイドルが幸せになるはずと、信じたいだろう。信じ続けて報われる日を、時々諦めそうになりながらでも、やっぱり祈って、待ち侘びるだろう。ジャニーズJrを応援する誰しもがきっと、同じことを考えていると思う。でも、やっぱり私は祝福する言葉が言えない。心が狭いから。そうじゃない。そうじゃないのだ。

 

 

 

猪狩くんが好きで仕方がない。アイドルとして、尊敬している。

 

 

 

 

 

だからこの悔しい気持ちを、わたしは絶対に忘れない。いつか、きっと来るであろう喜ばしい日に振り返って、無駄じゃなかったと笑いたい。

 

 

 

 

 

デビュー、しようね。

通過した夜の美しさ

春が過ぎ去っていくような、そんな気配がした。
まだ微かに濡れている髪の毛を、そっと攫う風の行方を追えば、その先にあるのは満月を終えたばかりの月だった。


小さい頃、わたしは夜が怖かった。暗闇が口を開けて、全てを飲み込んでしまうと思って。

そうなれば、この地獄に誰が気づいてくれるんだろうかと、文字通り、目の前が暗くなって。


あの頃、言葉は知らずともわたしは、間違いなく絶望のなかにいた。


足音に膝を抱えドアノブを捻る音に耳を塞いだ。父親の腕がわたしの布団をめくるたびにここで死ねたらと思った。例えばひとつの夜が無事に明けたとして、また次の夜がやってくる。周期的に訪れる悪夢に魔される位なら、いっそ。


けれどわたしがいま生きているのは、単純に勇気がなかったからだ。
何も知らずに眠っていた弟と母を想う。その幸せの価値を測る。
天秤にかけた苦痛と願いは後者が下に傾き、わたしは自らの純潔を差し出し汚され続けた。

 

2年前の春に大学で家を出たわたしは頼る場所も怯える場所もないこの街で、まだ死ぬことを選べない。

 

 

 

 

 

「ねえ、風邪ひくよ」

 

ぼんやりと鬱を齧る時間は、他の季節よりも春に永く設けられる。錆びた手摺に項垂れていた背中に、不意に投げられた声に小さく救われる。

 

「…蒼弥、雫垂れてる」

 

交代で入ったお風呂から上がってきた彼は色落ちしたピンク色から落ちる雫にTシャツを濡らしていた。振り返って手を伸ばしたあと、首にかかっていたタオルを奪ってそっと拭ってやる。


前から背伸びした身体を、黙ったまま片腕だけで支えてくれる。さして高い訳でもないのに、どうしてか届かない口許に視線を注ぐと、諦めるように眉を下げた彼が短いキスをくれた。

 

「何考えてたの、さっき」


「別に、なんにも」

 

こういうとき、やけに鋭くてたじろいでしまう。伝えたことがない過去も、もしかしたら君は知っているんじゃないかとか。勿論そんなことは有り得ないのだけど、そう思ってしまうくらいに、蒼弥はわたしのことを見透かせた。

 

「どうして?」


「振り返ったとき、なんか寂しそうだったから」

 

がしがしと髪を拭きながら、別になんにもないならいいけど、と、不器用に優しさを紡ぐ姿に、脈絡もなく泣きたくなった。自分が表に滲ませているなんて思いもしなかった感傷を、丁寧に掬いあげてくれる蒼弥のことが好き。

 

「こんな時間だけどさ、コンビニ行かね?」


「、うん」

 

明るい部屋から夜を眺めるのは、後ろに居場所があるから好きだ。でもその夜に浸るのはまだ怖い。

記憶に蒼弥がいるようになってからも、わたしはこんな夜に出歩いたことはなかった。ぼんやりと不安にのまれながらでも、蒼弥が乱暴に投げてきた薄手のシャツから、昼間につけている香水の匂いがすると頬が緩む。蒼弥の服は一回りも二回りも大きくて、腕を通せば抱きしめられているみたいだ。

 

 

 

車が少ない大通りは2人の影が街灯で伸び縮みする姿があるだけで、ただそれだけで、それを邪魔する存在なんてある筈ないのに、あってはいけないのに、いつも何かに怯えている。

 

ちらちらと目に映る無骨な手。

 

「蒼弥」


「んー」

 

意味などないのに名前を呼んで、それを知っているから特別に振り返って来たりはしないけど、それでも腕が伸びてくる。視線は動かさないまま指先だけでたしかに繋がる。蒼弥はいつだって欲しいものを、何でもない振りをして目の前に差し出すのだ。戯れるように身体ごと寄りかかれば小さな笑い声が聞こえた。


蒼弥の笑い声が空に弾けて消える。片側に体温を感じながら歩く夜のなかは何処か夢みたいでふわふわした。街灯や点滅する信号機のひかりが煌めいて、わたしが知っていた夜はもう何処にもないのだと知った。

 

だってこんなにも、もう忘れたくないほどに綺麗だ。

 

 

 

「なにが悲しくて泣いてるの」

 

ただ夜のなかを歩いているだけのふたりなのに、わたしはいつの間にか泣いていたらしい。頬が濡れていることに狼狽えながら、ゆるゆると首を振る。


ちがう、悲しくて泣いてるわけじゃない。

 

「夜が こんなに綺麗なんだって、初めて知ったから。悲しくないよ」

 

正しい距離で頷いてくれる優しさに甘えながら、わたしは言葉を探す。いまなら言えそうな過去を、手繰り寄せるように思い出す。蒼弥の手を、ぎゅっと握りながら。

 

「小さい頃に、嫌なことがあって。それはいつも夜だったんだけど、家を出てからもずっと、いつまでも思い出して怖くて、嫌いだったの。夜の間は誰も守ってくれないから。でも、いまは蒼弥が隣にいて、一緒に歩いてくれて、綺麗なんて思ったこともなかったのに、夜はこんなに綺麗なものなんだって、思えたの」


「ぜんぶ、蒼弥がいるから、っ」

 

過不足なく伝えるにはきっとわたしは言葉を知らな過ぎる。必死に、頭上を散らばる星を選ぶように続ける話が予兆なく途絶えた。目の前の温もりに視界まで閉ざされる。Tシャツを1枚隔てた奥に同じボディーソープの香り。

 

「こんなところで、そんな訳わかんないくらい可愛いこと言わないで」


「そ、う」


「いま、めちゃくちゃに好きだなって思った」

 

「怖かったこと、なんで今まで言ってくれなかったんだとか、当たり前に思うけど、それを俺がいるから好きになれたとか、それってどんな殺し文句なの」

 

そっと離れた身体で、わたしはきちんと瞳を見つめる。夜の帳が輪郭を曖昧にしても、その形が鮮明にわかるのは愛があるからだ。

 

「、ちょっとだけ 遠回りしようか」

 

そう言って照れくさそうに笑って、今度は指先が隙間なく絡む。もう一度歩き始めた歩幅もその速さも、さっきよりずっと小さく緩やかだった。わたしはこのまま朝がくるまで、果てまで広がる愛おしい夜に生きたいと、ふたりで生きていきたいと、ただ願っていた。