通過した夜の美しさ

春が過ぎ去っていくような、そんな気配がした。
まだ微かに濡れている髪の毛を、そっと攫う風の行方を追えば、その先にあるのは満月を終えたばかりの月だった。


小さい頃、わたしは夜が怖かった。暗闇が口を開けて、全てを飲み込んでしまうと思って。

そうなれば、この地獄に誰が気づいてくれるんだろうかと、文字通り、目の前が暗くなって。


あの頃、言葉は知らずともわたしは、間違いなく絶望のなかにいた。


足音に膝を抱えドアノブを捻る音に耳を塞いだ。父親の腕がわたしの布団をめくるたびにここで死ねたらと思った。例えばひとつの夜が無事に明けたとして、また次の夜がやってくる。周期的に訪れる悪夢に魔される位なら、いっそ。


けれどわたしがいま生きているのは、単純に勇気がなかったからだ。
何も知らずに眠っていた弟と母を想う。その幸せの価値を測る。
天秤にかけた苦痛と願いは後者が下に傾き、わたしは自らの純潔を差し出し汚され続けた。

 

2年前の春に大学で家を出たわたしは頼る場所も怯える場所もないこの街で、まだ死ぬことを選べない。

 

 

 

 

 

「ねえ、風邪ひくよ」

 

ぼんやりと鬱を齧る時間は、他の季節よりも春に永く設けられる。錆びた手摺に項垂れていた背中に、不意に投げられた声に小さく救われる。

 

「…蒼弥、雫垂れてる」

 

交代で入ったお風呂から上がってきた彼は色落ちしたピンク色から落ちる雫にTシャツを濡らしていた。振り返って手を伸ばしたあと、首にかかっていたタオルを奪ってそっと拭ってやる。


前から背伸びした身体を、黙ったまま片腕だけで支えてくれる。さして高い訳でもないのに、どうしてか届かない口許に視線を注ぐと、諦めるように眉を下げた彼が短いキスをくれた。

 

「何考えてたの、さっき」


「別に、なんにも」

 

こういうとき、やけに鋭くてたじろいでしまう。伝えたことがない過去も、もしかしたら君は知っているんじゃないかとか。勿論そんなことは有り得ないのだけど、そう思ってしまうくらいに、蒼弥はわたしのことを見透かせた。

 

「どうして?」


「振り返ったとき、なんか寂しそうだったから」

 

がしがしと髪を拭きながら、別になんにもないならいいけど、と、不器用に優しさを紡ぐ姿に、脈絡もなく泣きたくなった。自分が表に滲ませているなんて思いもしなかった感傷を、丁寧に掬いあげてくれる蒼弥のことが好き。

 

「こんな時間だけどさ、コンビニ行かね?」


「、うん」

 

明るい部屋から夜を眺めるのは、後ろに居場所があるから好きだ。でもその夜に浸るのはまだ怖い。

記憶に蒼弥がいるようになってからも、わたしはこんな夜に出歩いたことはなかった。ぼんやりと不安にのまれながらでも、蒼弥が乱暴に投げてきた薄手のシャツから、昼間につけている香水の匂いがすると頬が緩む。蒼弥の服は一回りも二回りも大きくて、腕を通せば抱きしめられているみたいだ。

 

 

 

車が少ない大通りは2人の影が街灯で伸び縮みする姿があるだけで、ただそれだけで、それを邪魔する存在なんてある筈ないのに、あってはいけないのに、いつも何かに怯えている。

 

ちらちらと目に映る無骨な手。

 

「蒼弥」


「んー」

 

意味などないのに名前を呼んで、それを知っているから特別に振り返って来たりはしないけど、それでも腕が伸びてくる。視線は動かさないまま指先だけでたしかに繋がる。蒼弥はいつだって欲しいものを、何でもない振りをして目の前に差し出すのだ。戯れるように身体ごと寄りかかれば小さな笑い声が聞こえた。


蒼弥の笑い声が空に弾けて消える。片側に体温を感じながら歩く夜のなかは何処か夢みたいでふわふわした。街灯や点滅する信号機のひかりが煌めいて、わたしが知っていた夜はもう何処にもないのだと知った。

 

だってこんなにも、もう忘れたくないほどに綺麗だ。

 

 

 

「なにが悲しくて泣いてるの」

 

ただ夜のなかを歩いているだけのふたりなのに、わたしはいつの間にか泣いていたらしい。頬が濡れていることに狼狽えながら、ゆるゆると首を振る。


ちがう、悲しくて泣いてるわけじゃない。

 

「夜が こんなに綺麗なんだって、初めて知ったから。悲しくないよ」

 

正しい距離で頷いてくれる優しさに甘えながら、わたしは言葉を探す。いまなら言えそうな過去を、手繰り寄せるように思い出す。蒼弥の手を、ぎゅっと握りながら。

 

「小さい頃に、嫌なことがあって。それはいつも夜だったんだけど、家を出てからもずっと、いつまでも思い出して怖くて、嫌いだったの。夜の間は誰も守ってくれないから。でも、いまは蒼弥が隣にいて、一緒に歩いてくれて、綺麗なんて思ったこともなかったのに、夜はこんなに綺麗なものなんだって、思えたの」


「ぜんぶ、蒼弥がいるから、っ」

 

過不足なく伝えるにはきっとわたしは言葉を知らな過ぎる。必死に、頭上を散らばる星を選ぶように続ける話が予兆なく途絶えた。目の前の温もりに視界まで閉ざされる。Tシャツを1枚隔てた奥に同じボディーソープの香り。

 

「こんなところで、そんな訳わかんないくらい可愛いこと言わないで」


「そ、う」


「いま、めちゃくちゃに好きだなって思った」

 

「怖かったこと、なんで今まで言ってくれなかったんだとか、当たり前に思うけど、それを俺がいるから好きになれたとか、それってどんな殺し文句なの」

 

そっと離れた身体で、わたしはきちんと瞳を見つめる。夜の帳が輪郭を曖昧にしても、その形が鮮明にわかるのは愛があるからだ。

 

「、ちょっとだけ 遠回りしようか」

 

そう言って照れくさそうに笑って、今度は指先が隙間なく絡む。もう一度歩き始めた歩幅もその速さも、さっきよりずっと小さく緩やかだった。わたしはこのまま朝がくるまで、果てまで広がる愛おしい夜に生きたいと、ふたりで生きていきたいと、ただ願っていた。